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震災から2年 -被災地復興奮闘記-

2011年3月11日に発生した東日本大震災は決して消えぬ傷跡を人々の心に残した。全国各地で被災地を悼み、何かできないかとさまざまな支援が行われているが、果たして、どれだけ現地の状況を知っているだろうか。被災地の「現在」をレポートする。

東日本大震災での犠牲者を悼み、東京湾で行われた灯籠流し。子どもたちを含め、多くの人々が哀悼の意を表した。このような催しが、被災地以外でも毎年行われるようになった。

PART1
とにかく前に進む!
新店舗をまちづくりの「核」に宮古市田老地区「たろちゃんハウス」

モノとヒトが集まる みんなの集いの場

三方を山に囲まれ、一方が海に開く宮古市田老地区。東日本大震災の津波で1609棟が全壊し、224人の死者・不明者を出した(2012年9月末)。生存者の多くも高台の仮設団地での暮らしを余儀なくされている。そのため、高齢者は買い物をするのもひと苦労。そんな住民を支えるのが、「たろちゃんハウス」と呼ばれるプレハブの仮設商店街だ。ピーク時には約1000人が入居した団地の隣で、生活必需品を提供している。

たろちゃんハウスは2階建てのプレハブ住宅3棟。中小企業基盤整備機構が、仮設団地に隣接する「グリーンピア三陸みやこ」駐車場内に建設した。食料品店や日用品店、食堂など、自らも被災した田老地区の21店が入居する。

その前身は、震災前に国道45号沿いで商店を営んでいた「田老スタンプ会」の会員17店が、「地元のお客さんを困らせてはならない」と設営した2張りのテント(2011年5月15日オープン)。車を流され、団地から約20km離れた市街地まで食料などを買いに行けない人たちのための立ち上げだった。

田老スタンプ会の会員も、39人のうち37人が津波で店と自宅を失っている。約3分の1はいまも営業再開に踏み出せておらず、廃業を決めた店主もいる。同会会長で協同組合理事長の箱石英夫さんは、「震災直後、商売をあきらめかけた会員は少なくなかった。とにかく一歩進もうという気持ちでスタートさせた」と振り返る。

台風の直撃や雨漏りなどには悩まされたが、テントには人が集まり、情報交換の場にもなった。元々、住宅地の中に自宅兼店舗を構えていた地元密着店の集まり。客の需要に応じて取り扱う商品を変えながらの商売に、箱石さんは「地元との持ちつ持たれつの関係を改めて感じた。商売とはこういうものなのかと思った」という。

テント営業の後、スタンプ会の会員は25人で「たろちゃん協同組合」を設立。11年9月25日、賃貸契約を結んで仮設商店街をオープンさせた。商品を充実させての「再出発」には、新たに5店が加わり22店舗となった。

団地の人口減に危機感 店を移転する組合員も

たろちゃんハウスのオープンから約1年半。ハウスはテント営業時と変わらず、地域住民が集う「コミュニティーの核」としての機能を果たしている。「時期尚早だ。誰も来ないのではないか」と批判されながら、盆踊りを開催したこともある。団地だけでなく近隣住民も訪れ、予想以上のにぎわいを見せた。

協同組合の副理事長で菓子店経営の田中和七さんは、「本当は皆、気分が明るくなる場所を求めているのに、それを悪いことのように思っている。変な遠慮は壊していくべきだし、商店街がその役割を担ってもいいのかもしれない」と話す。

だが、商店が震災前の体力を取り戻したわけではない。ボランティアらも訪れてはいるが、国道沿いで営業していた頃の集客力には及ばない。売上げは生鮮食品でも被災前の6割ほど。魚の解体ができないなど、仮設ならではの制約もある。

震災から2年が過ぎ、仮設団地からの人口流出も進む。ある店主は危機感を募らせ、移動販売や配達に重点を移した。協同組合としても国道沿いの案内板設置を進めたり、観光客の誘客に力を入れたりしているが、活性化につながるかは未知数だ。

今年の2月には、たろちゃんハウスで営業していた整体院が、建て直した自宅へと店を移転させた。箱石さんは「たろちゃんハウスにとっては規模縮小とはいえ、仮設ではなく本設。喜ばしいニュースだ」と言うが、寂しさや不安も見え隠れする。

新たなまちづくりはヨーロッパ型で

宮古市は、15年度末までに高台の土地造成を完成させるとしている。だが、高台での商店街の発展は望めない上、住宅地には自由に出店できない恐れがある。資金繰りの面からも、各店主が住居兼店舗を再建するのは難しい。そこでたろちゃん協同組合はいま、住宅地から離れた国道沿いに共同店舗を本設することを目標に掲げている。

アイデアは、たろちゃんハウスから生まれた。駐車場に立地するハウスの前には、住民に開かれた広いスペースがある。そのおかげで盆踊りなどを開くことができたし、人が集まって情報交換する場にもなった。団地とたろちゃんハウスの間に生まれたこの広場の再現を目指す。

イメージはヨーロッパ型のまちづくり。ヨーロッパのまちは中心に広場があり、その周辺に商店を配置。住民が集う場として確保されている。そのため、住民が分散して暮らすようになっても、「行けば全て用が足りる」共同店舗と広場があれば、そこが「地域コミュニティーの核になり得る」と箱石さんたちは期待している。

とはいえ、協同組合の中には住居兼店舗をあきらめられないメンバーがいて、組合を一つにまとめるところからの出発になる。市の都市計画も不透明で、「いまも非常事態」(箱石さん)にもかかわらず、本設する場所も決められずにいる。

それでも、「とにかく一歩進むしかない」と箱石さんは決めている。田老地区のまちづくりはこれからが本番。「不平と不満と不安の中での話ではあるが、光が見えるように、地域の再生にかかわっていきたい」

PART2
震災後のネットワークが新たな可能性を生み出す 仙台市経済局/扇町ビジネスパーク

東北における仙台の役割を果たす

仙台市は、1978年の宮城沖地震をきっかけに震災に強いまちづくりを目指してきた。建物の耐震化はもちろん、水道管も耐震管に変更していった。

「努力のかいがあり、今回の地震で倒壊したビルはなかった。ただ津波は予想外でした」と仙台市経済局産業政策部産業振興課産業立地係長の藤原知明さん。実際、市内の死者・行方不明者は929名に上った(2013年1月21日)。

「道路をかさ上げしたり、海岸堤防を復旧させたり、すでに次の地震の備えに着手しています」(藤原さん)すでに仙台の経済活動は、震災前の状態にほぼ戻った。飲食店や宿泊施設などは、復興需要による人の流入の影響で、震災前よりも売上げが増加しているところも少なくない。

人口は、震災前よりも約2万人も増えた。「気を付けるべきは、仙台だけが成長するという状況に陥ること」です(藤原さん)。

仙台は、買い物やレジャー、進学、就職などで東北各地の若い人が流入してくることで成長する都市。その流れが止まれば、いずれは衰退する。だから復興が早かった分、ほかの市町村が復興するためのけん引役となることを目指している。

例えば、被災地の水産加工品や農産品などを含めた各産業や観光の復興をバックアップするために「東北復興交流パークプログラム」を事業として策定。「東北ろっけんパーク」などの施設を貸与するなどの販売支援を行っている。ほかにも、仙台にやって来る観光客に近隣のスポット巡りと宿泊するプランを提案している。

被災した感覚がなくなる場所

「仙台市の立ち直りが早かったのは、被害が少なかったことに加え、支援が迅速に行われたことにある。震災翌月には、市内732社の企業に聞き取り調査を行って緊急の問題を明らかにし、まず16の集中施策を実施した。その一つが仮設事務所・仮設工場の整備だ。仙台市では中小企業基盤整備機構との共同事業で、扇町ビジネスパーク(公募)、仙台港運送事業共同組合復興事務所(共同組合会員企業向け)の二つをつくった。

例えば扇町ビジネスパークには、仮設の事務所12区画、工場3区画を用意した。賃料は無料。原則3年、最大5年間まで借りられる。6月に入居相談を開始し、8月に本募集、10月に入居というスケジュールだった。募集15区画に対して27社の応募があり、抽選で決めたという。

「ここに入ってから被災した感覚がなくなりました」と言うのは、(株)オイカワ美装工業代表取締役の堀江顕さん。同社は色の調色技術などを売りにした塗装会社。仮設事務所の壁面には技能士の証明書がズラリと並ぶ。社員は堀江さん含めて5人。日当ではなく、月給で働く近代的な塗装会社を目指して2009年11月に法人化。

その1年半後に津波で同じ敷地内に建つ自宅、オフィス、塗装道具が流された。幸い仕事はあったし、従業員は全員残留。足りない道具は同業者や取引先が融通してくれた。

しかし、オフィス再建の余裕はない。出勤場所は、屋根だけ残った元オフィス。「だから、このオフィスに当選した時は、本当にありがたかった」(堀江さん)。建設ラッシュも加わり、業績は順調に伸びているが、居心地がよくて出たくなくなるとも言う。「さまざまな会社がすぐ近くにあるので、情報交換ができて勉強になります。この環境に慣れると、ここでいいかと思う時もあります」と笑う。

共同の新規事業が生まれる予感


「来年か再来年には卒業できそうです」と頼もしく答えるのは、ステンレスペイント(有)代表取締役の松原史男さん。同社は、樹脂にステンレスの顔料を混ぜた錆止め塗料のメーカー。通常2~3年で効果が失われる錆止め塗料だが、同社の製品では10年程度にまで伸びるという。

先代から会社を引き継ぎ、これから国内のみならず海外にも本格的に売っていこうと思った矢先での工場・オフィスの被災だった。幸い原料が残ったので、扇町ビジネスパーク入居前は、知人が貸してくれた倉庫の片隅で細々と塗料の製造を続けていた。

「ここに入居したメリットは、工場スペースが確保できたことだけではありません」(松原さん)。まず、市役所から助成金などに関する情報が豊富に入ってくる。展示会への出店や自社パンフレットの作成など、さまざまな販促活動は支援制度を知ったからこそ実現できたという。

また、前出の堀江さんが言うように、ビジネスパーク内の企業同士の交流は活発だ。お互い注文を出し合う、客を紹介し合うなどは日常茶飯事。新規事業が生まれそうな予感もある。松原さんも隣接するスキー用ワックスのメーカーであるKFアテイン(株)と、除雪車の下に錆止め塗料を塗り、その上にワックスを塗ることで除雪車の寿命延長を図るサービスを考案。すでに試験もして効果を確証。大きな事業に育つ楽しみが生まれた。

「何よりも大きかったのは、みんなが同じ境遇だという仲間意識ですね。だからがんばれるんだと思う」(松原さん)。みんなで共通のホームページをつくろうという話もあるそうだ。

PART3
「仮設を出るのは廃業の時」を止めるために (独)中小企業基盤整備機構

専門家の無料派遣で被災事業主を支える

(独)中小企業基盤整備機構(以下中小機構)の事業者に対する復興支援への取り組みは早かった。中小機構は商工会議所などと連携して中小企業を支援する経産省の外郭団体だ。

震災翌日の3月12日には、東北本部のある仙台で、また3月末からは盛岡、福島にも事務所をつくり、それぞれに震災復興窓口を開設。「被災した事業者の話を聞いて落ち着いてもらうところからスタートしました」と震災緊急復興事業推進部復興事業企画課長の高橋浩樹さん。高橋さんも仙台で被災した。

震災間もない時期に圧倒的に多かったのは雇用と資金に関する相談だった。「事業ができないから解雇すべきか」「それとも雇用を維持すべきか」「事業再建、雇用維持の資金はどう工面すればいいのか」……。どの事業主にとっても大きな問題だった。

そこで中小機構は窓口での相談に加え、4月から専門家を派遣。同機構は、元々、士業を中心に4000人の登録者を擁していたが、今回も約800人を新たに震災復興支援アドバイザーとして登録。阪神・淡路大震災の支援を経験した人も専門家として加わった。通常の専門家派遣は実費が必要だが、この制度では何度利用しても無料。10回以上利用した企業もあったという。

無料で入居できる仮設施設を整備する

「事業再開のためには、オフィスや店舗などが必要です。4月末から無料で入居できる仮設施設整備事業をスタート。初めての試みでした」

仕組みは以下の通り。まず、被災した複数の事業者が市町村に「こんな施設がほしい」と要望を出す。それを受けた市町村は土地を用意した上で中小機構に事業を要望。中小機構は仮設の工場、オフィス、商店街など希望に沿った施設を建設する。いわば市町村と中小機構の共同事業だ。完成したら、中小機構は施設を市町村に無償で貸与し、さらに1年以内に譲渡する。

募集開始から半年後の10月頃を境に急速に要望が増えた。早かったのは久ノ浜、塩釜、南相馬などで8月頃に完成した。しかし、早く仮設施設がつくれた場所は土地の確保が容易なところ。まとまった土地が確保できない、地域の復興計画が決まらないなど、未だに施設がつくれない地域もある。

昨年末時点で施設数は550カ所、総面積は20万500平方メートル。現在は、新規の要望は月数件と落ち着いたが、今後は福島のように戻れる区域の見直しに伴い、新たな要望が出ることも想定されている。

施設ができても、復興までの道のりは長い。例えば「地域の人口減少に拍車がかかった」「高齢による廃業の時期が早まった」など震災前から抱える問題が一挙に表面化した地域も多い。またメーカーなどは、生産体制が戻ったにもかかわらず「原料が手に入らない」「販売先がなくなった」などのようにサプライチェーンが切れてしまったケースもある。

そこで現在は、復興支援アドバイザーの役割も、事業の復旧から本格的な事業展開に向けた支援に変わってきた。

今後の課題は、どうやってスムーズに仮設を卒業し本設に移るか。「まずは、仮設を出るのは廃業の時、という考えに陥ることを止めたい」。それには粘り強く対応していくしかない。中小機構の支援活動は続く。